本シリーズツアーは、新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、
今シーズンの開催を中止することといたしました。
ご期待いただいていた皆様、たいへん申し訳ございません。
今シーズン予定していた企画は、
次年度に移行する予定です。

IGR・いわて旅の学び舎2020

各地の専門解説員から学ぶ

旅する南部塾-第三幕-

~中世から近世へ 南部氏と城下町~
  

第一回
「久慈城と久慈氏の歴史」

 久慈城①
久慈城跡(イメージ)

 

昨年2019年は
「中世南部氏家臣団と信仰の世界」と題して

南部氏家臣団ゆかりの地と信仰の対象としての十和田湖
を訪ねてきました。

さて、今年2020年は
「中世から近世へ 南部氏と城下町」をテーマに

”南部塾”第三幕が幕を開けます。

第一回は久慈市で、
中世南部氏の家臣の一つ久慈氏を巡る旅として「久慈城と久慈氏の歴史」を探ります。

昨年の修学旅行(第六回)、種里城からの流も含めてお楽しみください。

今回は「久慈城御城印」をもれなくプレゼントします。

 

【案内人】

千葉啓蔵氏(久慈市教育委員会)図2

・・・・・・・・・・・・・・・

主催:IGRいわて銀河鉄道株式会社 銀河鉄道観光 
協力:財団法人岩手県文化振興事業団岩手県立博物館
   南部町教育委員会、久慈市教育委員会、
遠野市市教育委員会、花巻市博物館、
紫波町教育委員会、盛岡市遺跡の学び館、
日本城郭史学会盛岡支部、もりおか歴史文化館

   函館市博物館、室蘭市教育委員会

 

 

 

詳しい案内は、こちら!
    
旅する南部塾・第三幕ウラ(2020.03.16) 旅する南部塾・第三幕オモテ(2020.03.16)

ツアー名


 旅する南部塾-第三幕-
  ~中世から近世へ 南部氏と城下町~


第一回テーマ
「久慈城と久慈氏の歴史」


【案内人】
千葉啓蔵氏(久慈市教育委員会)

出発日

 

2020510日(日)   日帰り

※ 募集締切は出発日の7日前
※ ただし、定員になり次第締め切ります

旅行代金


一戸駅集合・解散
お一人様 9,3
00円


盛岡駅~奥中山高原駅間
途中乗車の方は往復乗車券付 10,800
(HPから申込される方はメッセージに往復乗車券付とご記載ください。)

※ 旅行代金に含まれるもの:貸切バス代(岩手県北バス)、ガイド料、昼食代、施設入場料
※ 全行程添乗員同行
※ 食事:朝× 昼○ 夕×

乗車地

・・行程 ・・・・・・・・・・・・・・・・

8:50  一戸駅  集合

9:00 一戸駅発
            ↓ 
10:00 久慈城跡
12:00 発
    ↓
12:30 道の駅くじ(昼食)

    ↓
13:30 久慈市歴史民俗資料館

14:20 発
    ↓

14:30 道の駅くじ
    ↓
15:30 発
    ↓
16:40頃 一戸駅解散

【凡例】 ↓…バス、…徒歩、+++…電車

・・集合・解散に便利なIGR電車のご案内・・・


盛岡駅ご集合の方は 7:20 IGR盛岡駅改札口前にご集合ください。

7:32 盛岡駅 発+++8:35 IGR一戸駅 着

16:55 一戸駅 発+++17:59 盛岡駅 着

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ バス座席に関しましては、弊社にて指定させていただきます。
※ 運輸・観光機関のスケジュール変更・内容変更・天候状況・交通規制・現地道路状況等により、出発・到着時間、行程が変更になる場合がございます。

募集人数

 

40名さま (最少催行人員:15名さま)

おすすめポイント

✿久慈城跡

久慈城は別名八日館、通称新町館ともよばれ、久慈川沿いに開けた平野を一望する標高80M、平野との比高約40mの男山を利用して構築した平山城で、城跡は現在も主郭部や三段構成の帯郭、豪跡、馬場跡等が良好な状態で残っており、中世山城の条件を備えた極めて重要な史跡である。
久慈城は、久慈氏の居城であったが、その築城年代は定かでない。
久慈氏12代久慈備前守信実が「居を久慈大川目一八日館と伝う一に構え」と記録されており、信実以前に既に城館があり、そこに居を構えたかもしれないし、あるいは信実によってはじめて久慈城が築かれたかもしらない。久慈氏は19代三百数十年にわたり久慈地方を治めたと伝えられているが、信実以前については諸説があり不明な点が多い。
天正19年(1591年)、18代久慈備前守直治は、九戸城主九戸政美と三戸城主南部信直との争乱の際、女婿19代久慈中務政則とともに九戸方の武将として参戦した。しかし、豊臣秀吉の命により信直の救援に赴いた豊臣秀次を総大将とする大軍の攻撃を受け、九戸城を舞台に善戦したものの浅野長政の謀略にあい、ついに九戸方は降伏開城するところとなる。久慈備前守直治、政則父子は九戸政美とともに捕らえられの身となり、栗原郡三迫(宮城県栗原郡栗駒町岩ヶ崎)に送られ処刑される。
九戸争乱の際久慈城は戦場とはならなかったが、久慈氏の嫡系が滅亡し城主を失った久慈城は、その後間もない天正20年(1592年)6月、豊臣秀吉の諸城破却命令によりとり壊され、姿を消す。(久慈市教育委員会書抜粋)



✿久慈市歴史民俗資料館

この久慈地方(八戸藩久慈通・盛岡藩野田通)は、大量の砂鉄があり、日本における二大産鉄地であり、山陰山陽の鉄と競合して、 江戸市場を制覇したこともある(寛政のころ)。久慈砂鉄は一般のマサ砂鉄と異なり、浅層、洪積世、山砂鉄で渇鉄鉱系の「ドバ」といわれ、膠着(こうちゃく)した茶褐色いる。久慈八日町の中野作エ門が、釜石鉱山の創業に大きくかかわっているが 1つは山根町の鉄山職人、300人余りを移住させて、その技術を生かし、2つには中野兄弟の資金3千両を得て、大島高任は製鉄に成功している。我が国の鉄鋼業の夜明けは、当地方の技術の先進性と高炉に対する中野兄弟の、その先見性として評価されるべきものである。この地方に高炉を築く夢があったのである水車吹子の発明は野田の中野勘左エ門であるが、天保の後年の発明と推定される。「たたら経営」のコストの低減にかかわる水車吹子の技術革新は、革命的な出来事であり、釜石高炉の縦吹子につながっていったものと推定される。川崎製鉄久慈工場は、我が国唯一最初にして、最後のものであった。 この僻すうの地に砂鉄の量産と工業化にかけた、松方五郎、西山弥太郎氏らは、大正から昭和にかけて、米国、ドイツ等との技術提供をした歴史的事実は特筆されるべきものである。以上の理由から、久慈砂鉄の会の発足をみ、この風土のおける誇るべき鉄産業の文化遺産を後世に残すべく、市民各位及び多くの識者の支援を得て開設となりました。

 

お申し込みは、カレンダーの○をクリック!↓

【募集中】旅する南部塾-第三幕- 第一回「久慈城と久慈氏の歴史」5月10日(日)出発【日帰り】

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